まうまう。 まうまう。

 小僧が押し開いた扉の隙間にすかさず猫の身を滑り込ませ、室内を見渡すが、しかし何処を見渡してみても、昼行灯の姿が見当たらない。
 続いて入室した小僧の邪魔にならないよう一先ず脇へと避けながら、自分と同じ光景を目にしただろう小僧と視線を交わし、小首を傾げあった。
 そして自分に意見を求めるより先に楼閣の中に意識を走らせ、気配の有無を探り始めた小僧の表情を横目でちらと盗み見、中々堂に入って来たなと思いつつ、改めて室内に視線を転じた。
 「――喉が、渇いたな」
 見るからに心配げな小僧を他所に、此処暫くを顧みて大事が起こったわけではあるまいと早々の内に判断を下し。ひょいと一気にステップを飛び越えて数歩進んだ自分の口からぽつりとこぼれ出たそんな一言に、どうやら求める気配を手にしたらしい小僧は安堵の表情を浮かべて一つ、頷いた。
 「一寸待ってて、」
 肩口の釦に手をかけて黒いマントを脱ぎ去りつつそう応えを返した小僧が炊事場に消えるのを見送り、さて茶が来るまでの間何時もの場所で寛ぐかと一歩踏み出した自分の目に、ふと所長用の立派なデスクが目に入った。
 正に重厚という言葉の似合う立派過ぎるほどに立派な其れには、背後にある大きな窓から降り注ぐ春のうららかな日差しが燦々と降り注いでいた。翻りて先程向かおうとしていたソファーを見れば、場所柄仕方無いとはいえ、暖かな日差しにちらと掠る気配すらなかった。
 妙に寒々として見えるソファーと暖かそうな頭上のデスクを幾度も比べ見ながらどうしたものかと一瞬悩む。しかしソファーには何時でも座れるさとあっさり結論を出すと同時に足早にテーブルの脇を通り抜け、一気にデスクの上に飛び乗った。
 果たして自分の目利きは正しかったらしい。長時間に渡って春の日差しに照らされ続けていた其処は、ほっこりと温まっていた。
 ……うう、これはよい。
 冷え切っていた自分の手足がじんわりと温まっていく感覚に、思わず目を閉じて酔いしれた。
 水の流れる音と湯を沸かしている微かな音が、炊事場へと続く戸口から社内に響く。
 ある程度温まった手足に満足し、喉を鳴らしながら目を開けば、デスクの上に放り出されたままの紙袋が目に留まった。
 今朝方、自分と小僧が此処を出る際には見かけなかった筈の其れに、眉が寄る。
 ――鳴海の奴め。また何かつまらぬものを買ってきおったんだな。
 無駄遣いをするなと常日頃から言われているのに全く仕様の無い奴だと、振り返って無人の椅子を見据えながら長い尾の先でぺちんと卓上を叩いた。
 しかし当の本人が居ない今、空席に向かって爪を繰り出すわけにもいかない。
 命拾いしたなと内心舌打ちしながら、せめて小僧が戻ってくる前に片付けておいてやるかと一旦下ろした腰を上げ、一歩を踏み出した。
 しかし歩を進めて幾何もしないうちに、目が眩んだ。
 大きく開いた紙袋の口が、自分を誘っているように見えたのである。
 ――はっ。いかんいかん。
 一旦足を止め、ぷるぷると頭を振って本能に訴えかける誘惑を振り払う。そうして数度深く呼吸をしてから改めて、目の前の其れを見据えた。
 ――俺は猫ではない。目の前で振られる忌々しいあの草と違って、此れは単なる紙袋だ。気を確り持ちさえすれば、なんてことはない筈。
 そう何度も自分に言い聞かせ、よしと気合を入れて一歩を踏み出す。そして顔を逸らしつつ、膨らんだままの其れを叩き潰さんと前足を大きく振りかぶった。
 しかし目標を定めるためにほんの一瞬、視線を流した際に迷いが生じた。
 経験を顧みて、これはいかんと思うものの。しかし改めて見てみれば、袋自体も大き過ぎず小さ過ぎず、実に程よい塩梅であるようだ。此の大きさであれば、自分の身体は心地良い具合で以って包み込まれることだろう。
 前足を振りかぶったままの体勢で暫し固まり、むむむ、むぅと唸り声を上げる。
 しかし時間が経てば経つほど、自身の決心は揺らぎ。また前足は次第に地へと落ちていった。
 室内をそわそわと落ち着きのない素振りで見渡し、次いで小僧の居る炊事場に耳を澄ませれば、湯の注がれる音が聞こえてきた。つまり、自分に残された時間はあれが程よく冷める迄の後僅かということになる。
 そう思い至ると同時に腹を括り、目の前の紙袋を見詰めた。
 そうしてかさり、と小さな音を立てて踏み込み、僅かでも頭を突っ込んでしまえば後はもう止まらない。 珍しく自身の茶でも淹れているのか、直に戻って来るだろうと思っていた小僧が炊事場から出てくる気配が無かったのも災いした。がさごそがさごそと夢中になって歩を進め、全身をすっぽりと包まれた感覚に堪らず、にゃあと鳴いた。
 しかしそんな自分の声が社内に響いた次の瞬間、社の名が入った扉が大きな音を立てて開いた。
 「ワハハハハ、やーいやーい、ひっかかった、ひっかかったっ」
 続いて響き渡った男の声にはっと我に返るがもう遅い。必死になって出ようとするが、もがけばもがくほど抜け出せない。正に文字通り頭隠して尻隠さずといった風情の自分の姿を目にしたらしい男が、盛大に噴出する音が聞こえた。
 手を叩きながら爆笑する男の声に、全てのあらましを悟る。
 ――き、貴様ぁ……、謀ったなっ。
 眼前に広がる茶色の紙底を睨み据え、怒りのままに大暴れするが、周囲に聳え立つ紙の壁は衝撃の全てを吸収し中々破る事ができない。
 ふがふがともがき続ける自分の無様な姿を更に笑う男の声に、怒り心頭に達した自分が一声発しようと口を開きかけた正に其の時。
 「……一体何の騒ぎですか、騒々しい」
 炊事場から出てきたらしい小僧の冷静な声が、鶴の一声とばかりに室内に響き渡った。
 「おう、お帰りライドウ。お疲れさん」
 湧き起こる笑いを抑え、ひぃひぃと呻きながら労いの言葉をかける。
 全く悪びれる素振りのない男に対し、どうもと短く応えを返した小僧は小さな音を立てて何かを置き。暴れる自分の隙を見計らって身体に片手をかけたかと思うと、もう一方の手で紙袋を掴み、一気に取り払った。
 突然開けた視界に映る光景と其の眩しさに、思わず目を瞬く。
 そうして落ち着いた頃合に改めて周囲を見渡せば、漸く収まった笑いの後遺症か。腹を押さえて自分を見詰める男の、忌々しい笑みの浮かんだ愉快そうに笑んだ顔と、多少呆れ気味に自分を見詰めている小僧の姿。
 この上なく癇に障る其れらの光景に全身の毛を逆立て、己を抱く小僧の腕の中で暴れ始めれば、剥き出しにした爪が何処ぞに掠ったのか。短い悲鳴をあげた小僧が反射的に腕の力を緩めた隙に其の身体を蹴りつけ、間近に佇んでいた男に向かって飛び掛った。


 デスク脇の空いた場所で暴れ始めた二人の姿を、巻き込まれてはかなわないと少々離れた場所から腕を組みながら傍観する。
 器は猫でしかないとはいえ、其の気になれば其処らに居る悪魔の首を掻き切ることの出来る目付けではあるが、如何せん今は完全に頭に血が上っている。対して彼の方はというと、一瞬の隙を突いて捕らえた目付けの胴体をしっかと抱え、振り回される前足の動きを鮮やかに避けて余裕綽々の表情だ。
 後一時間、といったところかな。
 決着がつくまでの所要時間に冷静にあたりをつけたところで、湯気を発しなくなっているケトルの注ぎ口と、脇に置いた目付け用の食器とを見詰め、肩を竦めた。
 ……折角湯を沸かしたんだが、仕方無い。
 小さく溜息をついて肩を竦め、未だ大騒ぎを続ける両者を其の場に残したまま中央の卓子に着席する。そうして鞄から取り出した教科書や辞書の類を卓上に広げ、ひとしきり頭を悩ませつつ課題の一つを片付け始める。
 「……何だかんだ言って、仲良いんだから」
 作業の合間に手を休め、片肘を突きながら再び向けた視線の先で、激しくじゃれ合い続けている両者の姿に、分かってはいたもののなんだかなぁと深い溜息が漏れた。