まうまう。 まうまう。


ライドウが熱を出して倒れた。

一時、スペイン風邪じゃあるまいなとかつての悪夢が蘇り気が気でなかったが、金王屋地下の怪しい医者の見立てによれば連日の責務による疲労からのもののようで。
それを知ったときは安堵すると共に自分がらしくもなく動転してしまったのだというその事実に妙な居心地の悪さを感じてしまった。

「我が輩の見立ては完璧である・・・。帰ってこの薬を飲ませ、安静にしていれば明後日にも普段どおりの葛葉に戻るであろう」

ゴム手袋に包まれた手をわきわきと動かしながら(なんだあの動きは)言う言葉を信じ、薬を受け取り探偵社へ戻ることにした。

ああそれにしても先程の状態の葛葉からは生体エネルギーが普段とは微妙に異なる波長となっているのを感じた実に興味深い是非ともデータを収集したいものださぞや素晴らしい結果が、

とうっとりと呟く医者の声が背後から聞こえたのは気のせいだということにしておこう。
精神衛生上あまりにもよろしくないからな。



たとえ行いや言動が不穏であろうとも、あの医者の腕は信用できるのだろう。
何せあの大事件の間ずっとかかっていたらしいからなぁ。
そんなことを考えながら額に浮かんだ汗を拭ってやる。
大きくなった、こいつも。
今は辛うじて勝っている体格を追い越される日も近いだろう。

「・・・、」

「ん、気がついたか、」

彼には珍しく、きょとん、とした顔で室内を見回している。
いつもの不敵な顔つきが微塵も感じられない年相応の顔は、言っちゃあ何だが非常に可愛らしい。
先の事件以降、以前より増して大人びた顔を覗かせるようになってしまった所為で、中々愛でることができなくなってしまったそれ。
その原因の一端は自分が担ってしまった自覚はあるので、複雑ではあるが。
常に傍らに居た黒猫を失ってしまったことも影響しているのだろう。
俺には話せないことでも、あの黒猫にならば話せていた様だから。
そして今の此の状況もまた、黒猫が居たなら決して起こらなかったであろう筈のもの。

無理しすぎなんだよ、お前は。
体力の限界を超えて走り回る奴があるか。

彼はまだまだ成長期なのだ。
自分の肉体というものが変化し続けていることを失念してしまっている。
今までは黒猫が看て遣っていて、限界が近いようなら警告して休ませていたのだろう。

だがその黒猫も今は居ない。

「・・・鳴海、俺は・・・一体」

「あぁ、驚いたぜ。帰ってきて速攻ぶっ倒れるんだからさ」

こちらを見つめ、先を促す彼に説明を続ける。
本人が何処まで覚えているか怪しかったので、一連の経緯を簡単に。
学校から帰ってきた時には既に顔色が悪かったこと。
共に行こうとする俺を押し留め、一人で金王屋の地下に居る医者に診察してもらいに行ったこと。
先程伝えたように、社に帰ってきて扉を開けた瞬間に崩れ落ちるように倒れたこと。
ひとまず勝手のわかる俺の部屋のベッドに寝かしつけたこと。

「一応ちゃんと看てもらったらしいけどな。
 ・・・お前、薬もらってくるの忘れていただろう」

壁際に置いてあるキャビネットの上に置いた薬を指しながら話す。
金王屋の主人経由で電話がかかってきて取りに行ったんだけどな。
ありゃあ怪しさを通り越して何か別の者になってるよな、あの医者は。
そう片目を瞑りながら笑いかけると、彼はつられたようにクスリと笑みを零した。

「・・・あまり、無茶はするもんじゃないぜ。お前はまだまだ子供なんだからさ。疲れたときは素直にお兄さんに甘えなさい」

今回はちゃんと見抜いて遣れなかったけどな、済まない。
普段は帽子に覆い隠されている、ライドウの長い前髪を梳くようにかき上げてやりながら謝罪する。
どこかしらうっとりとした表情を浮かべ、その感覚に酔っている彼に少しどきりとした。

・・・しまった、こいつは。

こいつが、俺に対して
“そういった”意味で惚れているのを失念していた。

その感情に気付いて以来、俺はそれまで事ある毎に行っていた親愛を表す行動を全て控えていた。

ああ、判ってる。判っているとも。
こいつが俺にそういう感情を抱くことになった原因の一端は俺の考え無しな親愛行動にもあったのだということを。

だが普通考えないだろう、こんな神の寵児とも言える程に全てに恵まれた子が、選りにも選ってこんな年増の、欠陥だらけの男に惚れてしまうなんて。

だが未だ明確に伝えられてはいないので何とか逃げ切ることは可能だろう、と考えている。
今なら、一時の気の迷いで済む範囲だ。

「薬を飲む前に、何か軽く腹に入れなきゃな。粥でいいか」

出来るだけ自然に見えるよう彼の額から手を引き、キッチンへ向かう。
切なげな表情を浮かべた彼の眼差しを目に入れないよう、気をつけながら。


ふぅ、危なかった。

扉を閉め、安堵の溜息を吐く。
どうも俺は彼のああいったところに弱い。

幸いなのは、彼が未だそれに気付いていないことだ。
其処を攻められたら、正直逃げ切れるかどうか。
・・・情けないことだが自信がない。

死ぬつもりで宗像さんを追って行った先で再会して以来、彼に対して以前のように一線を隔した態度が取れない。

子供だと思っていた。
守ってやらねばと思い置いてきた。

そんな自分の先入観を不言実行で粉々に粉砕してのけた彼。
自分の中で何かがひっくり返っってしまった、そんな感覚を初めて味わわされた。
だがそれは決して不快ではなく、むしろ当然のような感覚を己にもたらし。

「共に行こう」と言った後の、数十秒間の出来事の記憶は。
今は敢て封印している。

それに触れては引き返せない、俺の経験と感がそう警告を発しているからだ。
そして俺は長年慣れ親しんだそれに従っている。
だが今為すべきことは、無理をして倒れてしまった彼に粥を持って行ってやることだ。

既に下ごしらえは済ませてある鍋を再び火にかけ、調子を見ながら炒り卵を加え、塩で味を整える。
こんなもんか。
焦げ付かないように火を止め、スープ皿に盛る。

うちには土鍋がないからなぁ。
矢張り最低限そういったものは購入しておくべきだったか。
いやしかし俺の中の譲れないイメージとは合わないし。

等とくだらない事を考えながら粥が冷めないように皿に蓋をする。
勿論金属製の、洋物の取っ手のついたやつだ。
初めて少年がこのキッチンに入った折に、不思議そうに見つめていた品の一つでもある。

あの頃は可愛かったなぁ。

盆にナプキンとスプーン、粥の入った皿、湯冷ましを入れたカップを乗せ、再び自室に戻った。



「お待たせ、起き上がれるか」

扉を開けると、彼はゆっくりと起き上がるところだった。

「すみません。・・・お手数おかけします」

「病人がつまらないこと気にするな」

気だるげな色男ってなぁ絵になるもんだねぇ。
そう心中で茶化すことでさざめく己の心を落ち着かせる。
零すようなことがあってはいけないので、カップだけをひとまずキャビネットの上へ。
後は彼の膝の上へ盆ごと乗せ、ナプキンを彼の首元へ引っ掛ける。
落ち着け。俺は彼の保護者だ。
自分を見つめてくる眼差しに態と気付かぬ振りで支度を整えてやる。

「ありがとうございます」

彼の目が自分から逸れた事にほっとしながら、蓋を取ってやる。
ふわり、と湯気が昇り、粥が現れると彼は嬉しそうに目を細め、手を合わせて
頂きます、と言いスプーンを持ち食し始めた。


「・・・くくく」

もう駄目だ、堪え切れん。
遂に声を漏らして笑い始めた俺を彼は拗ねた目で睨んだ。

睨んだってしょうがねェじゃねェか、お前。

彼は何時も被っている帽子がないせいで、長く伸ばした前髪が粥を口に運ぼうとする度に顔にかかり、それをうっとうしそうに払う、という行為を幾度も幾度も繰り返しているのだ。
そんな間の抜けたことをこんな色男がするだけに、見ているこっちは可笑しくってしょうがない。

嗚呼、もう。本当にしょうがねぇなぁ。

こういうところが変わらず可愛くて堪らない。
具合の悪い彼のために、特別のご奉仕だ。
ベッドの脇に置いて座っていた椅子を壁際にどけ、彼の隣近くに腰掛けた。
俺のベッドは二人用として売られていた大きなもので、そうでもせねば中央部に居る彼に余裕を持って近づけないのだ。
上体を捻り、右手で彼の顔にかかる前髪をかき上げてやる。
突然縮まった距離に目を白黒させていた彼は、そこまでされて漸く事の次第を知ったのか熱によって赤らんでいた頬を更に染めて礼を言った後、いそいそと粥を平らげた。

「ご馳走様でした」

「おう、お粗末さん」

彼の前髪から手を引き剥がし、盆を引き上げキャビネットの上に。
薬とカップを持ち、彼に渡す。
直ぐ傍で立っていられると落ち着くも何も無かろうと、再び彼の隣に腰を下ろし、薬を飲み終えるのを待つ。
パラフィン紙を受け取り、くずかごへ。
残りの湯冷ましを飲む彼を見つめる。

大分ましになったようだな、安心した。
自然笑顔を浮かべた自分を、カップを空けた彼が見つめる。

凝っと発熱からだけではない熱の篭った眼差しに気付き、しまった油断したと腰を上げようとした自分を彼は逃さなかった。

左腕をするりと俺の腰に巻きつけ、動きを抑える。

こいつ、具合が悪い筈なのに。
何処からこんな力が出てるんだ。

腕を外そうともがく俺の足掻きなど露ほども感じないかのような顔つきで見据えてくる。

しまった、これは不味い。

これまで経験した、どのような苦境ですら今の状況に比べれば遥かにましであったのでは、と思う程にかつて無い程の危機感を感じた。

「ラ、ライドウ・・・放してくれないか」
「何故です」
「な、何故ってお前・・・」
「その必要はないでしょう」
「いやいや、熱でおかしくなってるんじゃないかお前」
「熱は出ているかもしれませんが、今の俺は普段と別に変わりありません」

何時の間にやら彼の体温が互いの衣服を通して伝わってくる程までに俺は彼に引き寄せられている。

待て。待て待て待て待て待て。

悲鳴を上げたくなる気持ちを押さえ、再び口を開いた。

「普段と変わりないって、全然違うじゃないか」
「そうですか、」
「そうですかってお前、」

今自分が行っている行動を理解しているのか。

「変わりありませんよ、」

普段からこうしたいと思っていましたから。
先ほどその機会に恵まれたので、今実行に移しているだけのことです。

しれっとして話すその顔を信じられない思いで凝視する。

こ、こいつ・・・、

こんな強かな奴だったっけ、と未だ混乱して硬直する俺に、彼が、したことは。


・・・ちゅ。


湿った音を立てて離れていく唇と、
齢に似合わぬ気だるげな色気を湛えた、顔。

「な、お、おま、な」

一時活動を停止した他人よりは余程優秀な己の頭脳が、
今しがた起こった状態を認識していく。

自分を更に引き寄せた右腕、

急に狭まった互いの距離。

視点が合わなくなった白皙の顔、

唇に燈った熱と、

微かに触れた、湿り気。

凄まじい勢いで顔に血が集まっていくのを感じる。
何だ今何が起こった俺は今何を。
ぐるぐると混乱する感情に相反するように脳がその結論を打ち出す。

ライドウが、
俺に、
口付けを、
した。

余りにも明確すぎる程無情に打ち出されたそれに、俺の身体は脊髄反射並みの速度と勢いで彼の腕を振り解き、そのまま部屋を飛び出す。
引っ掛けておいた上着と帽子を手に取り、階段を駆け下りる。

嗚呼、なんてことだ。

もう引き返せなくなってしまった。
お前は俺にどうしろって言うんだ。
お前はまだ若いから、今のことしか見えていないんだ。
俺は常に先のことを考える。
だから、こんな事が起こってはならないように、
今まで必死で。

最早混乱を極めた頭を抱えながら、俺は電車に飛び乗った。



「・・・やってしまった」

乱れる前髪をそのままに額に手を当て俯く。
だってしょうがないじゃないか。
今までどれ程自分が抗議しようと普通に触れてくれていたくせに、
ある日を境にぱったりとそれがなくなって。
せつなくてせつなくて堪らなかった。
嫌われるようなことをした覚えはないし、ただ触れてくれなくなっただけで他の事に変化は無かった。
だがそれだけに、何故今まで当然のようにあった事が無かった事にされてしまったのかが気になっていた。


そんな折、体調管理もできず、

情けなくも倒れてしまった己。

優しく介抱してくれた貴方。

かつてのように、親密になった距離。

触れてくれた、ぬくもり。


あれ程までに感情の抑制が効かなくなってしまったことなんて、生まれて初めてだった。


感情の赴くままに紡いだ言葉。

動いた身体。

・・・そして、触れた、熱。



「・・・しまったなぁ」

あれじゃ、まるで痴漢じゃないか。
同意も無しに、無理やり身体を押さえつけて口付ける、だなんて。

落ち込みながらそこまで考えて、思い出した。

そう、抱き締めて口付けたのだ。彼の愛しい人に。

途端に蘇ってくる生々しい感触に全身が紅くなる程の劣情が走った。

いやいや待て。
落ち着け、第十四代目葛葉ライドウ。
こんなところで紅くなってる場合か。
逃げてしまったあの人に、何かを言わねば。
それを果たさねば、油断のならない彼の人のこと。
先程の事を“なかった”事にされ、漸く触れることの出来た心の一端に再び触れる事叶わなくなるだろう。

そう、確かに自分は触れることが出来たのだ。
彼の人の心に。
譬えそれが自分の暴走の結果だとしても、あの時の彼の表情は。
嘘偽りなく、真の心を写し取ったもの。

「・・・追わなければ、」

Dr.の処方した薬は効果覿面で既につまらない疲労から来る発熱など引いてしまっている。
汗を含んだ衣服を着替える為に自室に向かいながら、少年はふとある事に思い至り再び赤面した。

・・・あのベッド・・・鳴海の、匂いが、した。


         (超力終了後、『崖っぷち』直前)