まうまう。 まうまう。

「・・・何だって、」

報告書を手にしたまま、彼はガタン、と大きな音を立てて所長用回転椅子から立ち上がった。
そのあまりに深刻な様子に内心目を見張る。心なしか全身が震えているようだ。

「・・・どうかなさいましたか、」

内容に不備でも、と問い返せばそうではない、と返された。
では一体なんだというのだ。
足元にいる黒猫と視線を交わし、見るものが見ればそうとわかる程度に眉宇を顰め、彼の人の言葉を待つ。

「嗚呼・・・なんということだ・・・」

呻くように呟き、書類を持っていない方の手でその前髪をくしゃりと掻き潰す。
まさしく天を仰がんばかりの嘆き様である。
一体何事だというのだろう。さっぱり読めない。

「・・・あの、」
「信じられない、・・・ライドウ」
「は、はい」

ピシリとした声で呼ばれ、思わず組んでいた腕を正し直立不動の体制を取る。足下の黒猫もまた緊張しているようだ。

「お前・・・“これ”を見たのか、」
「は、・・・これ、とは、」
「“これ”だよ、ここ、ここに書いてあるやつ、」

震えた手で掴んでいた為に僅かに皺がよってしまった書類をデスクに置き、その箇所を指し示す。
黒猫もまたそれを見る為にひらりとデスクの上に飛び乗った。
そこのあった記述は、

・・・『鳴海、不在ニ因リゴウト代筆』

「・・・はぁ、」

思わず声がひっくり返った自分や目をぱちくりとさせた黒猫を他所に、呻くような口調のまま彼は続けた。

「嗚呼・・・なんてことだ。代筆ってことはあれだろう、この字体から言ってタイプライターを使ったんだな。タイプライターの前に座ってあの可愛い猫の手でぽちぽちと一文字一文字打って、チン、と音を立ててまたぽちぽちと・・・。ああああああ何て堪らない光景なんだ、想像するだけでこの身が打ち震える程だ。これを実際目にできるならばまさに至福、」

・・・ニャー (おい、)

「ああ畜生、知っていたならライドウの隠し撮りをさせてでもタヱちゃんのカメラを借りて撮影してその極楽絵図を永久保存できたのに、」

「もしもし、」

「ああああ莫迦莫迦俺の莫迦、何だって不在だったんだぁああああ」

ニャーーーー (いい加減にしろ)

バリッ

嗚呼・・・やっちゃった。
半面を手で覆う。しかし黒猫ばかりを責められまい。
救急箱の中身を思い返しながら取りに行く自分に見向きもせず、男はたらたらと手の甲から流れる血から書類を庇いながら(其処までするか)言葉を続ける。

「いってェ、何だよゴウト。
 そりゃお前には厭な仕事だっただけかもしれないけどなぁ、」

それ以上は言わない方が良いですよ。
ひっそりと胸中で呟く。
何故口に出して言わないかというとだ。
・・・自分は恐らく他の誰よりも、黒猫の爪の威力を知る者だからである。
とはいえ自分とは違い只人でありそれなりに気に入っている人間である彼に対し左程酷い攻撃は仕掛けないであろう。

「自他共に認める猫好きの俺にとっちゃ、大問題だ、」

ニャーーー(もうエエっちゅうねん)

嗚呼、鳴海さん言っちゃった。
そしてゴウト、お前佐竹さんの口調移ってるよ。
そう突っ込みを入れながら十字の意匠の入った木製の箱を手にデスクへ近寄り、血の流れる手をとり手当てを始める。幸運なことにそれ以上の手は出なかったようだ。

溜息をつきながら消毒をし、ガーゼを当て、包帯を巻く自分を他所に彼と黒猫は言い争い続けている。
呆れた溜息をつきながら薬品を仕舞い、箱を閉じる。

ていうか貴方方、言葉通じてるでしょう、実は。

「いくら引っ掻かれたところで、お前達に対する俺の愛が途絶える事なんて在り得ないんだからなーーーーーー」

ニャーーーーーーー(やかましいわ、この阿呆が)

少しで良いから俺にも向けてくださいよ、その愛を。

いろんな意味で遣る瀬無い溜息をつきながら、俺は二人を小休止させる一策として珈琲とミルクを入れにキッチンへと足を向けた。




(ヤツは心底真面目に嘆いてます)


この後おやつの時間に運ばれてきたカステラと煮干に漸く休戦協定が締結されました。