まうまう。 まうまう。




 儂はゴウトドウジ、イの四十七番である。気が遠くなる程の古においては人間であったのだが、今はゆえあって黒猫の身体に宿っている。
 こう名乗ったところで我が一族に連なるもの以外には首を傾げられる身の上であることは承知している。しかしヒトである時の名は失って久しい上他に名乗る者が居ることを思えば、其れを我がものとするのを禁じられた身であることを除外してもあまり得策ではないように思うので、あえてこう名乗らせて頂く。とはいえ、本当の名を名乗っていた頃に比べると、こちらの方が遙かに長くに渡って呼ばれ続けているので、若し余人にどちらに馴染みがあるかと問われるようなことがあれば咄嗟に口籠もってしまうやもしれぬ。何せ優に十三人分の生涯に渡って使われ続けているのだから、深く記憶に刻まれた彼等が自分に向かって親しく呼びかける姿を繰り返し思えば、此の名が罪を意味するのを判っていても、其れなりに愛着というものが生まれてくるのも道理というものだろう。言うまでもないことだが。
 人里離れた山陰の村から端を発したアバドン王事件が解決して数日経ち、次の任務も定まらぬまま待機を命じられ、細々とした事件は暇無く起こるものの、おおよそ太平と言って良い日々である。そんな帝都の片隅にあって、宿る器に相応しく暇に任せてのんべんだらりと過ごすのも悪くないが、其れではまるで以前の誰かさんのようであるし今風な作文を嗜むに良い機会であるので、部屋の片隅で埃を被っていた書物を片手にものかきなどを始めてみた。
 誰が言葉か、暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったもので、暑さから逃れる為に飯炊き部屋の片隅を彷徨ったのはつい先日であるのに、今となってはそんな日々がまるで幻であったかのように涼やかな風が通りを吹き抜けている。寧ろ朝の早い頃合などは寒いほどで、今や猫に宿る身としてこれは堪らぬとばかりに音を上げて、若さに任せ薄っぺらい夏布団を引っかけただけで寝入っている十四代目の懐に潜り込むのも珍しくない。
 我が名を継いだ者は過去多く居たが、此の十四代目を名乗っている小僧がこれまたくせものなのである。弥生と名付けられた時代より受け継がれたるかつての我が名を十の半ばと少しで襲名しただけあって、身の内に秘めたる力は随一である。未だ幼いものが色濃く残るものの、其の容色も素晴らしい。其れに加えて体躯にまで恵まれているものだから、そんなあやつを目にした他の者が思わず天に向かってぼやきたくなるのも分かるし、儂自身目付として誰よりも長くあやつと接する身。あの小賢しい科白をほざく口を捻くってやりたくなったことは数え切れない。
 しかし世の中はよくしたものであることを長年の経験から知っていた儂は、ただ黙って偉そうな口を利く小僧を見守っていた。そうしたら案の定、天にも届かんとする勢いで高くなっておったあやつの鼻をへし折る出来事をちゃんと用意してくだすっていて、何時気付くか何時気付くかと密やかに胸躍らせながら見守っていたあやつがいざ、自覚した時の顔といったら。今こうして思い出しても吹き出してしまいそうになる。しかしそうやっていい気味だと笑いはしたものの、同時にそのこと自体は意外に思ったし目付として悪い影響を受けることを危惧したのも正直なところだ。だがよくよく落ち着いて傍から眺めてみれば、能力的に欠損しているところをうまく補うことの出来る相手であるようだし、何より小僧の持つ才のほどを考えれば、なるほど趣味の悪さで均衡を保ったかと思わず天の采配の巧みさに膝を打ったという次第である。
 日々相手に振り回され、漸く人並みの苦労だとか悩みだとかいうものを知るようになった小僧の姿に成長を認め、それでよしと頷いたは良いものの、しかし小僧の悋気の強さにはほとほと参っていた。矢張り惚れた弱みがあるからか、文句があるなら本人に言えと幾ら言っても余程のことでも起こらない限り「いえ、何でもありません」の一点張りだ。そして行き場の無くなった鬱憤の矛先を儂に向けて来るのも迷惑な話ではあるが、だんまりを押し通したまま不穏な空気を撒き散らし、通りに散らばる悪魔を誘き寄せては刀を振るわれるよりはまし、と自らに言い聞かせて忍の一文字である。其れが痴話喧嘩ともなれば、双方の世話をしてやらねばならぬのだから気の休まる暇も無い。
 今日もまたそうやって双方の言い分を聞いてやり、落としどころを示してやったところで疲れ果て、事務所のソファーで休んでいると、件の男が大あくびと共に入室してきた。そしてソファーに居る儂を目にしたあの男はこともあろうか、「猫は気楽でいいねぇ」だなどと抜かしおる。思わず疲れを忘れ、頭を上げて男に向ける。
 「儂は猫ではない」
 誇りを持って憤然と言い返すものの、男の耳にはにゃあとしか聞こえない。儂の抗議をはいはいと聞き流し、所長用に誂えられた御大層な安楽椅子に座って新聞を読み始めてしまった。
 じろりと一睨みしてやるものの、男が気付く気配は無い。此の狸め、と腹立たしく思いながらも相手をするだけ無駄と早々のうちにそっぽを向く。しかし収まらない苛立ちに、儂の宿りし猫の身体は自然と毛繕いを始めた。
 獣の本能というものには度々煮え湯を飲まされることも多いが、この毛繕いという作業は気に入っている。昔から身奇麗にするのは好きだったし、何より此度宿りし黒猫の器の毛並みが日毎天鵝絨のような輝きを持っていくのは、見ていて非常に気分が良かった。
 今回もそうして艶やかな輝きを放ち始める毛並みを横目で確認しつつ、熱心に手の先から肩、背にかけて舌を這わせる。そしてソファーの方へと向き直り、腹部の毛並みを整えようとしたところで『それ』に気付いた。
 明かりの無い闇夜の如き漆黒の毛並みの中に、ひときわ白く輝く――。
 ……これは、なんだ。
 目にした瞬間、頭が拒絶した現実を認識するため、冬毛へと姿を変えた毛並みの中必死で目を凝らす。その結果目にしたものは、ほんの二円硬貨ほどの大きさの素肌、であった。
 素肌である。
 思わずまじまじと、目にするはずのない薄桃色がかった円形の肌色を見詰めたまま固まった自分の視界に影が差す。しまったと思うが早いか、その影の持ち主の声が降り注いだ。
 「あっれー、ゴウトちゃんそれ若しかして……ハゲ、」
 人が必死で考えないようにしていた現象をあっさりと言語化してのけたこの無神経な男は、背中を向けたままの儂の身体の向きをくるりと変え、ひょいと抱え上げたかと思うとへぇーほぉーと言いながら人の腹部に無遠慮な視線を注ぎ続ける。逸早く我に返り蹴りを繰り出すも両脇を押さえられている今は其の威力の半分も無い。しかし抵抗は止めぬまま莫迦者、無礼な、離さんかと罵っているうちに騒ぎを聞きつけたのか、「何ですか騒々しい、」と言いながら小僧が入室してきた。
 「おうライドウ」と声をかける男と同じく小僧の方へ視線をくれた儂の目に映ったものは、肩に入った白線を除いて普段は黒一色に染め上げられている小僧の、その身を包むは目にも眩しき白い割烹着、学帽に覆われている頭部は更にその上から白き三角巾が巻かれている。そしておまけとばかりに猛き悪魔を相手に刀を振るうはずのその右手には、はたきが握られていた。
 栄えある十四代目葛葉ライドウが何たること。
 あまりの惨状に思わず絶句する儂とは異なり、大正生まれの小僧っ子は己が姿などてんで気にならないらしく、男の両手に捉えられた儂の腹部に目を留め、「これは、」と驚いたような声を上げた。
 「どうしたんだゴウト、その姿は」
 「どうしたってお前、それ鏡見てから言ったら」
 三角巾被る時くらい帽子取れよと呆れたように続ける男の言葉をさらりと流し、手にしたはたきを壁に立てかけ、つかつかと歩み寄ってきた。掲げられた両手を目にした男は、さして抵抗することもなく儂を手渡し、腹部へと視線を走らせる小僧の姿を腕を組んだまま見守っている。
 間の抜けた体勢のままそんな両者の姿を見詰めた儂は、溜息をつきながら目を閉じた。
 どうしたも何も、心労以外に原因があろうはずもない。経験は人一倍豊富なくせに相手と向き合うということを失念しがちな男と、自ら望んで手を伸ばしたものなど数えるほどしかない小僧は、一端すれ違ってしまえばどちらかの限界点に達するまで延々とすれ違うし、うまくいっていたらいっていたでひとり身の儂が身の置き所に困るほどである。どちらがましかと問われれば、何れも甲乙つけ難く勘弁してもらいたいと答えるであろう。其れに加えて日々小僧の悋気に当てられ、帝都守護のお役目にまで付き添っていることまで考えれば、寧ろよく今まで耐えたものだという方が正しいのかもしれない。
 千年に近い歳月を生きてきたが、短期間でこうも神経を擦り減らされる羽目になろうとは。
 初めて目付けとして行動を共にした二代目やら、二代目の記憶を色濃く残したまま接してしまったがために深い確執をも残してしまった三代目やらの顔を思い出した途端、どっと疲れてしまった。
 項垂れ、肩を落とした儂の姿に目を見開いた問題児二人組は顔を見合わせ、「疲れてるみたいだから今日は休めゴウト」と異口同音に言った。そして元より抵抗する気力など無くしてしまっていた儂を早々のうちに小僧の部屋へと連れて行き、羽二重座布団に寝かしつけられた。
 結局その日はそれで終わったが、儂が休んでいる間何を話したものか、翌日になって起き出してからは二人揃って何時もの調子で、些か拍子抜けはしたものの変に気を遣われるよりはましではあったので儂も何時ものとおり誇り高く振舞った。ただ、儂の禿に関してはただの一言も無かったあたり、らしくないと思いはしたが正直有難くも感じていた。
 そうやっておおよそ十幾つかの日が過ぎたある時、暖かな秋の日が降り注ぐソファーの上で午睡をしていた儂の許に何やら改まった顔をした小僧が歩み寄ってきた。また面倒なことでも起こったのかと薄目を開けて見遣る儂の名を口にした小僧は、そのまま無言で何かを差し出してきた。夢現のまま目を向ければ、節くれ立ち、剣胼胝のある小僧の白い手の平の上に駱駝色の何かがちょこんと乗っている。このままでは何があるのか良く分からないので重たい腰を上げ、眠たい目を擦りながらなんだなんだと見てみれば、筒状に編まれた毛糸であった。
 「なんだこれは」
 何度も目を瞬かせてそう呟いた儂の言葉に、小僧は「見て分からないか」と逆に問う。「分からぬからこうして訊いておるのだ」と漸く目覚めてきた頭を振りながらそう言えば、一端口をつぐんだ後小僧はこう言ってのけた。
 「……腹巻だ」
 しかしそんな答えを聞いたところでさっぱり理解に繋がらない。「腹巻って誰の、」と更に問う儂に対し小僧は溜息を吐きながら「お前のだ」と述べた。
 「近頃急に寒くなってきただろう。だから、これで」
 硬直する儂に対しそう続けた小僧は、そこで口をつぐんだ。
 言いあぐねているらしい科白の先を逸早く悟った儂の尾が、一気に膨らむ。
 禿か、禿隠しに使えというのか。
 手ひどい侮辱に背中の毛まで逆立ち、要らぬわと一喝して退けようと口を開きかけるも、そんな儂の姿が目に入らなかったのか、何時の間にやら俯いていた小僧は「済まなかった」と口にした。
 「何時も苦労をかけている。何分このようなものを拵えるのは初めてだったから不恰好なところもあるかもしれないが、地から立ち上る冷気避けくらいにはなるだろう」
 神妙な響きに勢い殺がれた儂へ向けて告げられた言葉の内容に、思わず怯んだ。
 これは何かの謀かとその表情を見詰めるも、浮かぶは真摯なものばかり。本気で反省しながら儂のために努力した証を一言の下に退けるのも気が引けて、しかし何と言ったものかと頭を悩ませる。
 「そ、そうか。……しかしなぜ駱駝色なんだ」
 一先ず素直に厚意を受け入れる。しかし「黒毛の儂にこの色は目立つだろう」と続けて言及してみれば、あからさまに幼い顔で安堵した表情を浮かべた小僧は胸を撫で下ろしながら「ああそれは、」と頷いた。
 「鳴海に相談したら、黒だとありきたりだから流行の駱駝色がいいんじゃないか、と言われたから」
 小僧の科白が終わらぬうちに、巷で流行の探偵小説の主人公並みの心情で犯人はお前かとばかりに鋭く睨め付ける。しかし安楽椅子に座っていた男の行動が一歩早く、儂の視線は新聞の壁にあえなく阻まれてしまった。
 「本当に済まなかった、ゴウト。俺は今までお前に甘えすぎていたんだな。今はこんなつまらないものでしか感謝を表すことが出来ないが、これからも名に恥じぬよう精一杯努めていくつもりだ。これからも宜しく頼む」
 自分たちの遣り取りを聞きながら新聞の向こうで肩を震わせているらしい。僅かに震える新聞の動きから其れを悟り、新聞越しとはいえそんな男の姿を射殺さんばかりに睨み続けている儂へ向けて、これまたこういった場を読む能力に欠ける小僧が神妙な面差しのままそう告げる。何の反応も返さない儂に不安を感じたのか、小僧が顔を上げたらしい気配を感じ取った儂は慌てて小僧へ向き直り、「あい分かった」と頷いた。
 「済まなかったなゴウト。受け取ってくれるか、」
 儂の返答を耳にした小僧が嬉しそうな表情を浮かべながらそっと差し出したそれに、今すぐこれを着ろと申すかと堪らず怯む。そんな儂の反応を覗き見ていたのか、男が噴出した音が僅かに聞こえた。
 再びきつい眼差しで見据えるも、儂の視線に晒される前に男はさっと隠れてしまう。おのれこのうつけものがと歯軋りするも、相対している小僧に「ゴウト、」と不審げに話しかけられては鉄槌を食らわすことも出来ない。
 「いや何でもない」
 煮える臓腑を宥めながら引き攣った笑顔を浮かべれば、小僧は「そうか、」と笑顔を浮かべて更にずずいと其れを差し出した。
 こうなってはもう逃げられぬ。ままよとばかりに頭を差し出した儂へ向けて、小僧が何時に無く丁寧な仕草で其れを被せる。嬉しそうな気配を振りまきながら着々と其れを嵌めていく小僧に対し、こちらは正直刑場に赴かんばかりの心情である。
 時間にしておおよそ数秒間ではあったがひどく長く感じた時間が過ぎ、「できたぞ」と朗らかに告げた小僧の差し出した鏡の中に写ったもう一人の儂と目が合った途端、室内に男の爆笑する声が響き渡るのを尻目に、限界を超えた意識が遠くなっていった。


【了】