まうまう。 まうまう。





 「――それじゃアね、鳴海ちゃん」
 今度はゆっくりしていってね。サービスしとくわよ。
 紅に濡れた唇を笑みの形に変え、愛想だけではない光を其の目に浮かべた女はひらひらと手を振った。女の笑顔に満更でもない気分になりながら、同じような動作で手を振り返し、もう一方の手を口元にかざして周囲の喧騒に負けないほどの声を張り上げた。
 「オーケィ、今度はお土産持ってくよ」
 「期待しないで待ってるわ、」
 「ええっ、……そんなこと言うなよぉ」
 割と本気でそう述べたにも拘らず、即座に切り返された女の言葉に情けない表情を浮かべてやれば、女は戸口に立ったまま声を出して笑った。それじゃアねと最後に一振り手を上げて背を向けた女を呑み込み、ぴたりと閉じられた戸を暫く其の場で眺めた後、踵を返してどぶ川沿いの道をゆっくりと歩みだす。
 先日から暫く降り続いた雨の所為で、只でさえ状態の悪い道は随分とぬかるんでしまっていた。
 付近のどぶ川から風に乗って流れてくる独特の臭気に眉を顰めながら、しかしまぁ大したことではないとあっさりと割り切って馴染みの深い界隈を抜ける。泥を跳ね上げないよう歩き方に留意しつつ、時折すれ違う人々を巧い具合に避けていく。
 そして向島と抜ける一本の道に差し掛かろうかというとき、背に視線を感じた。
 日差しを避けるように手を翳し、生じた影の下で眉宇を寄せる。
 場所が場所だ。こんなところで野郎に視線を向けるだなんて不自然極まりない行為だし、百歩譲って他人の空似とされたとしても、自分のような長身の男なんてそうそう居るものではない。
 密かに訝しみながら翳した手を下げ、背後の気配を追いつつも先程と変わらぬ速度で歩を進める。
 怪しい事は確かだが、しかしそうと断定するには情報が足りなかった。
 何気なく歩を止め、手首の時計を見詰めてから視線を空へと転じ、天気を読む振りをしながら周囲の気配をじっくりと探った。
 暫く、といってもほんの数十秒といった時間だが、しかし何もないところに一人で呆と立ち止まっていては、幾ら日中のこととはいえ、此の界隈で生活を営む女たちの不審をかってしまう。大した害も無いことだし、此処は潔く諦めて帰路に着くべきかと思いながらも、物は試しとせせこましく立ち並ぶ家々の狭間に素早く身を潜めた。
 『抜ケラレマス』と書かれた看板の影越しに、つい先程まで自らが立っていた通りの様子を窺い、連れ立って歩く男女や窓越しに会話する人々の姿を凝っと眺め続ける。そんなことをおおよそ十数秒間続けてから漸く、気の所為だったかと肩の力を抜きかけた正に其の時、そんな彼らの姿に紛れて男が一人、通り過ぎた。
 目を眇めて其の姿を見詰める。
 男が一人で彷徨うことは別段珍しい事でも何でもない。
 正体に気付き、口元にうっすらと笑みを浮かべて尚密やかに其の姿を観察する。
 ただ、男が目指す其の方向が、つい先程まで自分が目指していた其れと同一であること。何気ない風ではあるが、周囲へと油断無く配られている其の視線が、ある種の行為を目的とした人々の集う此の界隈にそぐわぬ、無粋なものを秘めていること。
 ダービーハットを心持ち深めに被り直し、一切の気配を消しながら再び通りに姿を現す。周囲に目を配りつつ歩を進める男の後について、静かに歩を進める。
 ――そして何より、其の姿形が、因縁深いとある男と一致することが問題なだけだ。
 暫くそうやって尾行しながら、通りの交差する地点を二、三過ぎた頃合ですっと脇道に逸れた。
 多少泥は跳ねてしまうだろうが仕方が無い。そう割り切って、片手で帽子を押さえ込みながらぬかるみの多い細い路地を、音も立てずに素早く駆け抜ける。
 前方の路地を塞いでいた一際大きな水溜りを飛び越えたところで、偶然通りを眺めていたのだろう女の子が、睡眠不足の幼い顔に驚愕の表情を浮かべているのが視界に入った。
 これだけでかい男が全速力で走ってる上、大跳躍までしたのを見てしまっては驚くのも無理は無い。
 苦笑を浮かべながら、しかし速度は緩めずそのまま目的地目掛けて駆け抜ける。角を幾つか曲がり、いろは通りと交差する遥か手前の地点に到達したところで、漸く速度を緩めた。其処から先へは、呼吸を整えながら再び密やかな足取りで進んで行く。
 気配を探り、周囲の地形を思い描きながらそろりそろりと向こう側を伺えば、家屋と家屋の隙間から、先程の男がほんの僅かな焦りを感じさせる調子で歩を進めている姿が見えた。
 ――どうやら間に合ったようだな。
 僅かに乱れの残る胸を撫で下ろす。
 若し、あの男が見切りの早い性分であったなら、こうはいかなかっただろう。
 蛇にも喩えられるほど執念深い其の性格を、此の時ばかりは有難く思いながら、一度大きく息を吸って呼吸を整えた。次いで気配を完全に殺して歩を進め、男に見咎められないよう距離を見計らって素早く小道を渡り、更に前方にある家の一つに滑り込んだ。
 中に人の気配が無い事を確認しながら廊下を移動し、男の歩む通りに面したもう一つの玄関に身を潜め、僅かに開いた戸の隙間から男が通り過ぎる一瞬を息を殺して待ち侘びる。
 多少場所を失敬する事にはなるが、後の始末さえ怠らなければ誰にも迷惑はかからないだろう。
 気配を読みながら、懐からハンカチーフを取り出して片手に巻きつけた。
 それでも若し何か問題が起こるようであれば、先程別れた女を介して詫びを入れればいい。其れである程度の筋は通る筈だ。何も、此処で暮らす人々に害を加えるわけではないのだから。
 深川の任侠ほど深い仲ではないが、それでも付き合いの長い部類に入るだろう女の人脈に幾度目かの感謝を捧げた。



 腕を伸ばし、ハンカチーフの巻かれた方の手で口元を押さえ込んで、一気に屋内に引きずり込む。男が体勢を整える前にすかさず急所を押さえて動きを封じ、短い廊下を引き摺って手近な部屋の一つに連れて行った。
 身体の前面を壁際に押し付け、右の腕で男の両腕を纏めて動きを抑え込む。息を詰め、視線を泳がせて状況の把握に忙しい男の背後に身を寄せて口を開いた。
 「……こんなところでなァにやってンの、定吉ちゃん」
 お堅いお前さんが、随分とまァ珍しいところに居るじゃない。
 揶揄と共にそう話しかければ、男は驚愕で目を剥いた。
 「くっ、――離せっ」
 全ての動きを封じられた不快感から顔を顰めた男は、そう言って再び抵抗を始めた。無駄な事を、と内心で失笑しつつも更に力を込めて締め上げてやれば、潰れるような声を出して男は一切の動きを止めた。
 やっと大人しくなったかと思いながら、しかし手を緩めずそのままにしておけば、やがて其の細い顎は上がり、呻くような声が漏れ出で始めた。苦しそうに歪む男の姿を冷ややかに見詰め、其の額に滲み始めた脂汗をちらりと目を向けた。
 「……質問に答えたまえ、川野中佐」
 それとも何かね。
 こけた頬にたらりと垂れた男の汗を、空いた方の手で拭う。そして男の汗の滲む己が指先を眺め、見せつけるようにゆっくりと舐め取ってやれば、其れを間近で目にした男が完全に窮地に追い込まれている己が状況も忘れ、咄嗟に息を呑んだ姿が目に入った。
 「……長い禁欲生活に耐えかねて、女でも買いに来たのか、」
 「――っ誰が、こんなところに、」
 目を細めて哂いながら囁くように告げた揶揄に、侮蔑の言葉で返された。著しい不快感を抱きながら浮かべていた笑みを即座にかき消し、冷徹な光を浮かべた目で見据える。
 其れにたじろいだ男の頭部を容赦ない力で壁に押し付け、口を開いた。
 ――ヂーハウだからって、そう莫迦にするもンじゃない。
 「品が無ェのは認めるけどな。職業差別、良くないよ。俺、そういうの大嫌いなの」
 外観はこんな汚らしげだが、これで案外中身は綺麗なんだぜ。ちゃんと事実を把握した上で、そういう科白を吐くんだな。まァ、其れだって――。
 一呼吸、間をおく。
 「若し、お前にプロとしての気概があるならってェ話だけど」
 腕の力を緩めず一気に言い放ち、含みを持った言葉で一連の科白を締めった。
 そんな形で先程の態度を嗜められた男は、反射的に口にしてしまった自らの発言を省みて恥じ入ったらしく、弁解もせず、気まずい光を浮かべてただ俯いた。
 其の情けない姿を後ろから眺め、此の男は此の男で結構かわいいところあるんだよなぁと、脳裏の隅で少しだけ場違いな感想を抱いた。
 「――でもさ、それじゃア何しに来たってェのよ」
 「……」
 しかしそんな一時の感情に流される事なく、俯いた男の頭を再び背後から引き起こし、話を本題に戻す。
 「此処は女を抱くための街だぜ」
 ご丁寧にこんな格好までしてくれちゃってさ。
 男の固く引き結ばれた口を眺めながら、顎を掴んでいた手を離して着古された服の裾を引っ張り、失笑した。
 「……先刻の質問に否定されちゃうと、残る可能性なんて殆ど無くなっちゃうのよねェ」
 オカルト専門の鳴海探偵社、只今暇を持て余しております。御用の際はお気軽に。
 一旦男から顔を離し、虚空へ向けて唄うように呟いた。そして再び自らの面を接近させ、先程より尚間近に其の三白眼を覗きこむ。
 「俺もライドウも、今のところはごく普通の生活を満喫しているんだ。……あンた達にあれこれ探り入れられる筋合いなんて無いンだけど、」
 しかし男は回答を口にせず、目線を逸らすだけに止めた。
 元よりこれしきのことで口を割るとは思っちゃいない。
 大して苛立ちもせず、ただ無情に腕を締め上げ壁に押し付けてやることで其の態度に応えれば、急激に肺を圧迫されて呼吸が出来なくなった男は、二、三度苦しげに口を開閉させ呻き声をもらした。
 ――h-a、n-a、s-e。
 ゆっくりと吐き出される吐息の中から母音と子音を読み取り、会話を続ける。
 「いやだね。ちゃんと話すって約束してくれなきゃ離してあ、げ、ない」
 さっさと言ってしまった方が楽なのにと、にやにや笑いながら男が掠れた咳をする様を眺めていたら、後方から戸口が開閉する乾いた音が聞こえた。
 さては此処の住人か。
 迷いの無い足取りから正体の見当をつけ、さてどうしたもんかなと考えながら気配を追う。
 件の人物は部屋の前に差し掛かった辺りで自分たちの存在に気付いたようで、一時、其の歩が止まった。不自然でない程度に男を締め上げていた力を緩め、しかし自身の身体の陰に隠れて見えない関節部を固め、男の口を塞いだ。其処まで為したところで、部屋の入り口から女がそろりと顔を出した。
 訝しげな表情を浮かべて中の様子を窺う女に笑顔を向ける。
 「やぁ」
 「……誰だい、あンたたち。此処、あたしの家なんだけど」
 「悪い、見ての通り取り込み中でな。咄嗟に場所借りちまったんだ」
 自分たちの状況を見て眉を顰めた女に、すまなそうに微笑みながら謝罪した。そんな自分の言葉に呆れたように溜息を吐いた女は、まぁいいけど、と呟いてあっさりと背を向ける。
 「物騒なことにはしないで頂戴。……あと、あまり汚さないで」
 「分かった。部屋代は、」
 「そうね。……其処の化粧台の引き出しに入れといて。三十円」
 「ああ。――布団は使わないから安心してくれ」
 笑ってそう告げれば、女は当然でしょと鼻を鳴らして言い放ち、背を向けて歩み去った。
 戸の開閉した音に、悔しそうに唇を噛む男に視線を落とす。
 女へ向けていた笑みをかき消して、空いた方の手の平でむき出しになっている首元を覆えば、男の顔色がさっと変わった。
 急所を押さえられてはそうなるのも無理は無いが、此処でもう少し図太く笑えるくらいでないと、どうにもそそられない。
 手前勝手なことを思いながら、頚椎一番から七番に沿って、ついと指を走らせた。
 「苦しそうだな、大丈夫か、」
 「……ぁ、」
 「俺もあまりこういう暴力的なことは好きじゃないんだ」
 身を寄せた衣服の下、男の肌がぞわりと粟立つ。
 「でもさ、お前さんが悪いンだぜ。俺たちに関わるなってあれほど言ったのに」
 何時だったか、偶然居合わせた折に交わした会話を指し示せば、男は金魚のようにぱくぱくと口を開閉させた。
 「あれで分かんないって言うンなら、どう言えば分かってくれるのかなぁ。……俺に教えてくれよ、定吉ちゃん」
 構わず、へらへらと笑って呟いた後、笑みの形に歪ませたまま口を閉じた。苦しげに寄せられた眉の下から薄らと開いた瞼から覗く男の視線を受け止め、小首を傾げる。
 それとも何か。
 「……例の『やんごとなき』御方ってェのは、」
 ――そんなにライドウちゃんを自分の駒にしたいのか。
 其れを耳にした男がどんな反応を返すか。見当をつけながら虚空へ向けてそう呟く。
 「強欲も程々にしておかないと、また命とられる羽目になっても知らないぜ」
 「……ち、違っ、」
 予想に違わず、男は憤慨も露に、苦痛と恐怖に歪んでいた薄い唇をこじ開け反駁した。しかし再び締め上げられ、其の言葉は途切れる。
 「またまたぁ。そんな風に惚けて見せても無ぅ駄。――色々聞いちゃってンのよねェ、お宅さんの裏事情」
 あ、誰からだーつっても答えてあげられないから。御免してね。
 空々しい笑みを浮かべてそう告げた後改めて、脂汗が浮いた男の横顔をつらつらと眺めた。
 「本気になった俺相手に、誤魔化しきれると思ったわけじゃないだろうに。……ほいほいと命令受けてきやがって。一体何考えてンだ」
 荒く息を吐く男に冷めた声で其処まで言ったところで、ううん、と少々考え、次いで吐息がかかるほどに顔を近づけた。
 それとも何か。
 「『ひとつ思ひによりてなりけり』。――そんなに俺に思いをかけるか、」
 「……なっ」
 柔らかに頬を撫でてやりながら囁いた言葉に、男は狼狽した。
 続けて否定の言葉を口にしようとする男に構わず、其の頬に触れていた手を滑らせる。次いでゆるやかに胸元を通って脇腹を掠めれば、男の身体が面白いように跳ねた。
 「な、何をする、」
 「何って、」
 焦った口振りでそう言って暴れる男の身体を自身の身体を使って背中から押さえつけ、抵抗できないようにより強く捕らえてから滑らせた手で前を握りこんだ。途端にぴたりと抵抗を止め、慄く男の背の震えを感じながら、衣服越しにやわやわと刺激する。
 「お前、隙あらば俺とこういうことをしたかったんだろう、」
 より頬を寄せ、男の耳朶に唇を寄せながらそう囁く。ついでとばかりにちらりと其れを舐めてやれば、震える身体と共に手の中の其れが顕著な反応を示した。
 素直な反応にくくく、と密やかに笑えば、男が喉の奥で呻き声をあげて身を固くした。笑みを浮かべたまま囁く。
 「抵抗したって無駄よ。俺はそこいらのハイジーなんて、目じゃねェくらいのブラックだからな」
 言い終わると同時に前をこじ開け直接握り込んでやれば、途端に息を止め竦んだ男を宥めるように手の動きを再開させた。次第に荒くなっていく男の呼吸を耳にして、あまりに余裕の無い其の様子につい噴出する。
 「お前、ホンットに俺の事……」
 笑いを堪えながら悪い悪いと口先で謝罪し、感心したようにそう呟けば、男はぎろりと自分を睨んだ後悔しそうに目を逸らした。
 快楽と哀しみに震える姿を見詰め、哀れだとは思うが、しかし受け入れる気もないのに優しくしてやるのは寧ろ酷だと冷静に判断を下した。絶えず指を動かしながら、合間に男のベルトを素早く外し、ズボンをずり下げる。露になった其処を手の平で覆い、長い指を存分に使って全体を刺激してやれば男の呼吸は小刻みに、熱を帯びたものとなっていく。
 「――諦めろ。天地がひっくり返ったって、俺がお前のものになるなんてことはあり得ない」
 其の熱が醒めるほど冷徹な声でそう宣告すると同時に、手の中で張り詰めている其れの先端部を強く刺激した。



 力なく頭を垂れたものから手を離し、手を鋭く振って伝う其れを床に飛ばした。荒く息を吐く男の背に密着させていた自身の身体をゆっくりと離した。
 支えを無くし、床に力なく崩れ落ちた其の姿を、しかし警戒心を緩める事無く見詰め続けながら、汚れていない方の手でポケットから小さな軟膏入れを取り出し。中の油を掬い取ったところで、床に手をついてぼんやりとこちらを見上げていた男の顔色がさっと変わった。
 ――しかしもう遅い。
 口元を歪め、身を起こそうとする男の首元を掴んで床に押し付けた。床を掻く両腕を固め、再び動きを封じる。
 必死に抵抗しながらも腰が抜けている為か、碌に身動きも儘ならず。次第に青褪めていく男の顔色と、強張っていく身体の感触を楽しみながら油に濡れた手をゆっくりと後方に伸ばしていく。
 「若しかしてお前、……俺に乗っかれるつもりでいたとか、」
 道理で、あっさり白旗を揚げたわけだ。
 内心そう納得しながら其処へ指を当ててやれば、男は全身を硬直させ、猛然ともがき始めた。本気で抵抗する男の半身を尚も強い力で床に押し付け、其処に油を塗りたくる。
 触れた肌から直接感じ取れる男の、混乱や焦り、恐怖といった感情が奇妙に愉快だった。
 征服する事への悦びを久々に実感し、目を細め、冷ややかな笑みを浮かべて口を開いた。
 「……甘ェんだよ」
 冷酷な響きと共に押し入れられた指の感触に、男は竦みあがった。
 指を締め付け続ける感触に力抜きなよ、と呟けば、伏して自らの腕に顔を押し付け耐えている男は、引き攣った呼吸の中で出来るか、とだけ呟いた。全身に冷や汗をかき、恐怖で総毛立つ男の姿を眺め、全く大袈裟な野郎だと眉を顰めかけたところで、ふとある可能性に思い至った。
 「……若しかして、定吉ちゃんベキられたことねェの、」
 「――当然だ、風紀乱れた貴様らと一緒にするな、」
 「――言ってくれるぜ、」
 苦痛に歪んでいた顔を上げ、噛み付くような口調で反駁した男から目線を逸らし、苦笑した。
 陸軍にはそういった習慣があり、対して海軍には全くといっていいほど無いということは周知の事実ではあるけれども、其の役割如何に関わらず、同じ任務に就くものとしては修めていても不思議ではない行為であると思っていたが故にそう問うただけだったのだが。
 ――そんなに怒ること無いだろ。
 しかし男にとって自分の問いは、自らが所属する海軍全体を貶めるものとして受け止められたようだった。
 まさかこのような状況下にあって、こうも反応してくるとは。此の男の軍に対する挺身の程は百も承知していたつもりはあるが、それでも少々見縊ったものだったらしい。
 呆れ半分感心半分で肩を竦めながら、そりゃ悪かったなと軽く謝罪の言葉を口にした。返事を待たず、男の身に埋めたままの指をくいと動かし現実に立ち返らせてやれば、怒りに歪んでいた男の表情が瞬時に固まり、振り仰いでいた顔が再び伏せられた。
 「なら、新天地開拓ってことで。――人生、楽しくなるぜ」
 「き、貴様、」
 男の切羽詰った様子などそっちのけで明るい口調でそう言えば、引き攣った声で罵られた。
 男として不自然な行為であるとはいえ、慣れてしまいさえすれば其れなりに快楽を得る事ができると知っている自分としては、そんな男の意固地さがおかしくもあり、哀れでもあり。
 身の内に埋められたあり得ない感触に震え続ける男の姿を、冷たい目で見下ろす。
 ――しかし何より、そんなものとは無縁なまま、此の男はあの仕事を続けていられたのだということが癇に障った。
 男の両腕を捕らえていた手を背から腰元にかけて滑らせると、指を埋められ、抵抗する気力を失ってしまっていた男の身体は魚のようにびくりと跳ねた。反応を見ながら暫くの間腰を撫でつつ、埋めた指を動かし続ければ、ある一点を掠めたところで再び男の身体が跳ねた。
 自身の身体の反応に惑乱し始めた男の、竦んでいた先程とは異なった、落ち着きの無い呼吸音を耳にしながら指を動かし続ける。そろそろかと調子を読み、腰にあった手を前にするりと滑らせ、男の其れを再び握りこんだ。
 突然の刺激に反射的に持ち上がった男の腰の動きに合わせて後ろにあてがっていた腕も引き、前方へ廻した腕と巧く調子を合わせながら刺激を加えていく。急所を完全に押さえられても尚、男は一縷の理性で抵抗しようとしたようだが、穿った指の先でひっかいてやれば、途端に上体を支えていた腕から力が抜け、再び其の両腕に顔を埋める羽目になっていた。
 前へ回した手の中で熱が脈打つにつれて男の体温も上がり、小刻みに上下していた肩の動きもまた、其の呼吸と合わせて深く大きく、熱を帯びたものに変化していく。
 男が先程自ら述べた通り、どうやら経験は皆無であったようだから、こういった刺激に対する免疫も全くと言っていいほどついていないのだろう。
 自分相手であったから未だ良かったものの、若し敵方の人間にそういった趣味の持ち主が居たらどうなるか。分からないでもないだろうにと、少々頭の固い海軍の鍛え方には異議があると思いながらも両の手を一時も休める事無く動かし続けた。其の容赦ない仕打ちに堪らず、男が酸素を求めて下に伏せていた顔を横に向け、熱い吐息を洩らし始める。指の腹で一点を撫で擦り、もう一方の手の中で肥大する男の熱の先をいじってやりながら、其の息も絶え絶えといった無残な男の姿を半分呆れた目で見遣った。
 ……だから見ろ。ちょいとばかりいじってやっただけで此の有様だ。
 これではもう、気をやる事しか考えられないだろう。
 小さく溜息をついてそんなことを考えながら、男に向かって話しかける。
 「――なぁ、こうしてみると良く判るだろ、」
 残酷なもンさ、男の身体ってのは。
 「どんなに抵抗したところで、一定量の刺激を与えてやれば、」
 ――否が応にも、反応しちまうンだからさ。
 「くっ……っ、」
 自らも良く知る其の感情を、――其の屈辱を、今まさに感じているのだろう男の心情を推し量った。
 気の毒に、とまるで他人事のように思いながらも、しかし行為を止める事無く無情にことを推し進めていく。
 「なぁ、定吉。……惨めだろう、」
 荒い息をする男を他所に独白するように呟きながら、自らのベルトを緩め、前を寛げる。
 虚空を見詰めたまま、脳裏に思い浮かべるは只一人。
 闇の中、ほのかに浮かび上がる白い肌。覆い被さる影。上気した頬。高い体温。そんな時でしか目にする事のない、鍛え抜かれた身体を流れ落ちる汗の雫。腰を支える手の平。耳元にかかる荒い吐息。我が身を穿つ熱と、恍惚とした表情。見据えてくる、欲に染まった、しかし澄んだ眼差し。
 「男ってさ、」
 普段は意識して脳裏の隅に追いやっている記憶に、下腹部が顕著に反応し出した。そんな己の熱と、意に染まぬ快楽に苦しむ男の姿を交互に見詰め、苦い表情を浮かべて溜息を吐いた。
 「――ほんっと、どうしようもねェよなァ」
 サックはないけど、勘弁してくれ。
 そう宣告し、返事も待たずに貫いた。



 「……お前と顔つき合わせてると、どうにも腹が立ってくる」
 生理現象のひとつとして呼吸は乱れはしたけれども、行為の最中ですら僅かな濁りも生じなかった頭脳に浮かぶ言葉を口にする。
 「もう俺は昔の俺じゃない、昔の俺は死んだんだって言ってるのに、」
 男の身の内からずるりと引き抜き、身を離した。
 「……全く、しつこいったらありゃしない」
 鬱陶しそうにそう呟き、溜息をついた。
 「いくら俺に惚れてるからっていっても、限度ってもンがあるだろう」
 痙攣する男の身体をざっと眺め、身体的な怪我は負っていないことを確認する。
 「――で、だ。お望みの通り、もう一度昔の俺に会わせてやったわけだが、」
 ――満足したか。
 部屋の片隅に転がる小箱から塵紙を数枚失敬し、手や自身を拭き取りながら床に崩れ落ちたままの男に向けて一方的に言い放つ。汚れた其れをぽいと床に投げ捨て、小さな化粧台の前へ立って手早く身繕いを済ませた。
 「ま、これに懲りたら、俺たちに手出しするのは止すんだな」
 「……好きで手出ししたわけではない……」
 引き出しに札を放り込み、其処まで言ったところで初めて、横たわる男が口を開いた。
 其の意外な反応におお、と眉を引き上げ振り返る。長時間に渡って固められていた所為で碌に力も入らないだろう両腕を突っ張り、上げた頭で前方を睨みつけているらしい男は、掠れた、しかし力の篭った声を出した。
 「私は止めた。……しかし、」
 「わかってるって。呪を受けた御方じゃなくて、其の下のまた其の下の、つまんねぇ小物が駄々こねたんだろ」
 額に張り付いた前髪をかき上げながら再び鏡に向き直り、自らの全身を確認する。
 「上官に受け入れられないンなら、ショートサーキットって手だってあるンだからさ」
 平素の状態と変わるところがないことを確かめた上で化粧台から離れた。男の視線が自らを追うのを感じながら歩を進める。
 「――もうこんな真似はするな」
 男からの明確な返答は無いものの、しかし構わず塵紙の入った小箱を拾い上げ、男の方に放り投げて続きを述べた。
 「誤解するなよ、完全に接触を拒んでいるわけじゃアない。オカルトの絡んだ事件が起こるようなことがあれば、あんたたちはカラスに――ライドウに頼らざるを得なくなるだろうし」
 ダービーハットを手に取り、頭に乗せながら何処でもない虚空を見詰める。
 まぁ、つまり、――あれだ。
 「用があるなら、ちゃんとした正規のルートを通して依頼して来い、ってェことだ」
 そう言い残し、男へ向けて後ろ手に一振りして部屋を後にした。



 「――ダンナ」
 煙草を一本咥えて火を点し、ぷかりと煙を吐き出したところで小さく声をかけられた。
 「……来たか」
 家屋の陰に隠れるようにして佇む、背丈が自分の腰元ほどしかない小男をちらりと見詰め、直ぐ様前方へ目線を戻した。徐に懐から煙草を一箱取り出し、中に百円札を二枚忍ばせてぽいと後ろへ向けて放り投げて口を開く。
 「男が出てきたら、左の一室を掃除しといてくれ」
 ちょいと汚しちまったンでな。
 中を検め、嬉しそうに懐に仕舞いこむ小男にそう呟いて、煙を吐き出した。
 「――うちの助手には言うなよ」
 「ダンナの助手ってェと、あの矢鱈と目立つお坊ちゃんですか。へぇ、そら勿論」
 付け足した言葉が意外だったのか、目を向いた小男は確認するようにそう答えた。
 「それだけじゃアない。出来ることなら、あいつの目に留まるようなことがないよう、気をつけてくれ」
 そうまで言ったところで、一旦口を閉ざした。途中で言葉を切った自分の様子を窺う小男の視線を、横顔に感じる。
 しかし、……実際のところどう話したものか。
 内心密かに頭を抱える。
 まさか『あの少年は人の心を読む悪魔を従えています』、だなんて、本当のことを言うわけにはいかない。一般人が聞いても不自然でないよう、尤もらしく、細心の注意を喚起するには。
 「あいつ、……ライドウは、」
 後に続ける科白を吟味する。
 少々苦しい言い訳かもしれないが、自分のことを多少は知っている相手だからこそ通用するだろう言い訳をひとつ思い立ち、これでいくかと頷いた。
 思わせ振りな態度で小男に向き直り、徐に口を開く。
 「――尋常でないほど、勘が、いいからな」
 「……ダンナと同じくらいに、ですかい、」
 真顔でそう言ったきり、口を閉ざした自分を小男は暫しの間凝っと見やり、確認するように問いかけてきた。
 「いいや、俺以上だ」
 嘘ではない。
 なので即答すれば、小男はへぇっ、と感嘆した後即座に頷いた。
 其れを視界の端に入れ、今のところはこれで納得してくれたかとそっぽを向いたまま、密かに胸を撫で下ろす。
 あの少年は、本人がそうと意識せずとも兎角目立つ容姿をしている。ましてやこんな処では、其の姿形が駅前に現れただけで、瞬く間に界隈全てに噂が流れる事だろう。此の小男が姿を隠すには、其れで充分な筈。
 捜査の折には些か不向きな少年の外観を、此の時ばかりは有難がり、余計な手間をかけさせる侘びとして値打ちもののシガレット・ケースを後ろ手に投げてから、手の内にある煙草をひと吸いして一歩を踏み出す。
 弧を描いた其れを両手で受け取り、手の平で一撫でした後素早く懐に仕舞い込んだ小男もまた、何事も無かったかのような顔つきで、再び細い小道の暗がりに戻って行った。これから何処ぞで時間を潰しながら、あの男が出てくるまで待つのだろう。
 独特の臭いを纏う我が身に眉を顰めながら、歩む速度を速める。
 嗚呼全く、厭になっちまう。
 銭湯に近付くにつれてわらわらと増えだした、何処ぞで一泊したらしき男たちの中に紛れて気だるげな足取りで先へ進む。
 ――こんな面倒な事するつもりは無かったのに。
 矢張り一人前の男を組み伏せるのは骨が折れるなと呟いた。
 暖簾をくぐり、湯道具を借り受けて料金を支払う。
 此処で痕跡を消して。石鹸の匂いが消えるまで、銀座あたりをうろついて。お土産を買って帰ろう。
 籠の中に衣服を脱ぎ捨てながら、これからの予定を大まかに修正した。
 そして帰ったら、冗談半分に抱きついて、驚かせてやろう。
 お天道様も高いうちからそういったことを仕掛けては、少年の目付けである黒猫の怒りを招いてしまうかもしれないが、多少の引っ掻き傷は覚悟の上だ。
 あの少年はどんな反応を返してくれることだろう。
 滅入った心を躍らせる想像に頭を働かせ、自然浮かぶ笑みを口元に湛えたまま、湯気でけぶる洗い場に足を踏み入れた。


                       【了】








夏虫の身をいたづらになす事も ひとつ思ひによりてなりけり
                     (古今集五四四)


    夏の虫も火によって身を滅ぼし、
         私も思いの炎によって身を滅ぼす。


《用語解説》

ヂーハウ ・・・ 私娼のいる家
ハイジー ・・・ 高等娼婦
ブラック ・・・ 玄人
ベキる ・・・ おかまを掘られる
サック ・・・ スキン
ショートサーキット ・・・ 直属上司を飛ばして上に報告すること